玉村町の学校の歴史

公開日 2014年09月18日

学制以前の教育

 明治5年(1872)、明治新政府は近代学校制度を定めた「学制」を発布します。ではそれ以前、江戸時代の教育はどのように行われていたかというと、藩校・郷校・寺子屋・私塾といったところで行われていました。藩校は藩士の子弟を対象としたもので主に漢学の講義が行われていました。寺子屋・私塾は庶民を対象として、主に「読み・書き・そろばん」が教えられていました。郷校はその中間に位置するもので、藩校の性格をもつものと庶民を対象としたものとがありました。

玉村町の郷校

 江戸時代後期の文化5年(1808)11月、上樋越村に「義に嚮(むか)う」の意味を持つ嚮義堂(きょうぎどう)といわれる郷校(庶民の学校)が設立されました。嚮義堂は樋越村名主設楽庄右衛門、組頭八木平右衛門、組頭八木丈右衛門ら14人が発起人となり、子どもたちの学ぶ場所の建設を伊勢崎藩に陳情し、その願いが聞き入れられたことによって建てられました。約16坪の建物で、敷地面積は37坪でした。樋越原村の浦野神村ら伊勢崎藩の儒臣が教授にあたりました。

郷校「嚮義堂」(玉村町樋越)

郷校「嚮義堂」(玉村町樋越)

和算家斎藤宜長・宜義

 斎藤宜長・宜義親子は板井村(現玉村町板井)出身で、数多くの子弟を育てました。

 宜長は天明4年(1784)に生まれ、碓氷郡板鼻(現安中市板鼻町)の和算家小野栄重の弟子となり、さらに江戸に出て修業を重ねました。文化12年(1815)には清水寺(現高崎市石原町)に算額を奉納しています。弘化元年(1844)に61歳で没しています。弟子には、板井村で寺子屋を開いた大堀宣之や飯塚村の柳沢伊寿らがいます。

 宜義は文化13年(1816)に生まれ、天保5年(1834)18歳のときに『算法円理鑑』を著し非凡な才能をみせていました。他の著作としては『算法円理起源表』や『算法円理新々』などがあります。明治22年(1889)74歳で没しています。墓は宝蔵寺(玉村町板井)にあり、戒名「数学院乾坤自白宜義居士」。玉村八幡宮に弟子により算額が奉納されています。

斎藤宜義の墓
群馬県指定史跡  斎藤宜義の墓:宝蔵寺(玉村町板井)

明治の学校

 明治5年(1872)に発布された「学制」は、国民皆学を理念とし、全国を8大学区に分け、その中を中学区、さらに小学区に分ける学区制で学校をつくり、教育が行われるといったものでした。玉村町域でも10校の小学校がつくられました。

 明治12年(1879)に学制が廃止され、「教育令」が発布されました。これは学区制を廃止し、学校は町村単位で設置するといった内容でしたが、翌13年には改正(改正教育令)され、より中央集権化の強いものに改められました。

 さらに明治19年(1886)には初代文部大臣森有礼によって「小学校令」が出されたことによって、小学校は尋常科と高等科の各4年になり、尋常科は義務教育となりました。明治23年(1890)に改正され、尋常小学校・高等小学校となり、町村が学校設置の単位になりました。同じ年には「教育に関する勅語」が出され、明治41年(1908)尋常小学校は6年になりました。

大正・昭和初期の学校

 明治時代の画一的な教育から、大正時代に入るとさまざまな教育に対する動きが出てきました。子どもの自由な発想を大切にし、個性を伸ばす教育が広まっていきました。玉村町でも、大正15年(1926)に玉村小学校へ赴任した宮川静一郎校長による未分科学習(低学年の児童の学習では学科を分けないものとする)が実践されました。未分科学習から児童は段階を踏んで、分科さらには合科学習へと進んでいくことになります。その学習法は、一人一人が考える独自学習から、グル−プによる学習(分団学習)、そして全体学習となっていくものでした。

 また、芝根小学校でも大正7年(1918)より遠藤宗作校長により児童の自学・自習に重点をおいた「創造主義教育」が行われました。

 さらに、体育教育で大正期全国的に有名になった群馬県でしたが、玉村町でも群馬県師範学校の矢嶋鐘二教諭に指導を受けるなど影響をうけました。

 しかしこれらの教育も、戦争の影が迫ってくる中で、昭和16年(1941)「小学校令」が改正され、「国民学校令」が施行され、学校名は国民学校に変わりました。国家主義・軍国主義の色濃いものになっていき、「錬磨育成」の意の「錬成」の教育が行われ、さらに労働力の不足と食料不足を補うために勤労奉仕が行われました。一方で、学童疎開も行われ、満福寺や神楽寺、観音寺などが疎開先となっています。

青い目の人形

 昭和2年(1927)、アメリカの宣教師ギュ−リック1世が集めた12,739体の人形が日本の小学校に寄贈されました。群馬県の小学校には142体が贈られました。昭和18年(1943)に軍から焼却命令が出され、全国のほとんどの人形は処分されてしまいました。

 玉村小学校では当時人形の歓迎会が行われ、名前は「ル−ス」ちゃんです。現在も校長室に大切に飾られています。

奉安殿

 奉安殿とは、御真影(天皇皇后の写真)が収められたところです。明治30年代からこの奉安殿は各学校に建てられるようになり、昭和21年(1946)に撤去の命令が出たことによってほとんどの学校で破壊撤去が行われました。子どもたちは、登校下校時には拝礼をしていました。

 玉村小学校にあった奉安殿は、現在玉村八幡宮に国魂神社として祀られています。

 国の登録/登録有形文化財玉村八幡宮末社国魂神社

戦後~現在の学校

 昭和20年(1945)、戦争が終結すると、それまでの軍国主義教育は否定され、教科書などは軍国主義の部分を墨で塗る(墨塗り教科書)、奉安殿の撤去、修身・日本歴史・地理の授業停止などそれまでの教育は一掃されました。そして、昭和22年(1947)に教育基本法、学校教育法が公布され、教育課程は「六・三・三・四制」となり、玉村町の各小学校も「国民学校」から「小学校」へと改称しました。昭和20年代後半には、教育委員会が設置され、民主主義教育へと動いていきました。

 現在、玉村町には5つの小学校(玉村・上陽・芝根・中央・南)があります。

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