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町の主な文化財

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年9月18日更新

火雷神社(からいじんじゃ:下之宮)

 灰色の鳥居が参道の中間にあり、その奥の杉並木のなかに社殿が見えます。この神社の歴史は古く平安時代に上野十二社の八の宮として名前が見えます。伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対して下之宮といわれ地名起源にもなっています。

 この神社の麦蒔御神事は、五穀豊穣と災難除けのために行われています。旧暦10月末の午の日から13日間の神事期間に境内に入ったり、家々で鳴り物高声をあげると雷雨大風がおこるとされています。

火雷神社
火雷神社

角渕八幡宮(つのふちはちまんぐう:角渕)

 建久4年(1193)に源頼朝が那須野で狩をした帰りにここで休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているので、鎌倉の八幡宮の分霊を勧進させ、建久6年(1195)に建てられたといわれています。その後、江戸時代初期には玉村八幡宮に移されました。

 今の本殿は江戸時代後期に新たに建てられたものです。

角渕八幡宮
角渕八幡宮

川井城跡(かわいじょうあと:川井)

 川井城は別名霞城とよばれ、烏川対岸の金久保城主斎藤定盛の支城で、弟基盛が在城し北条氏直に属していました。しかし、天正10年(1582)神流川合戦で滝川一益に攻め落とされました。

 現在の摩利支天のある高台は、当時の本郭の櫓台跡といわれています。

川井城跡
川井城跡

十一面観音像(じゅういちめんかんのんぞう:町歴史資料館受託)

 丸みを帯びた姿の観音像は、桧の寄木造りで高さが119cmあり、室町~江戸時代初期のものと推定されます。右足をわずかに前に出し、腰部にひねりを加え、躍動感を表現しています。江戸時代までは火雷神社(下之宮)にまつられていましたが、その後、明治維新の神仏分離とともに東林寺(下之宮)に移されました。現在は歴史資料館に展示されています。

十一面観音像
十一面観音像

花台寺五仏(けだいじごぶつ:樋越)

 境内にある五智如来石仏は、元禄2年(1689)の建立で、大日如来が胎蔵界の仏で他の四仏は金剛界という不思議な組み合わせですが、五仏の揃った貴重なものです。

花台寺五仏
花台寺五仏

竹内勇水句碑(たけうちゆうすいくひ:下新田)

 竹内勇水は江戸時代中期の俳人です。下新田の人で名は徳往といい、代々宿役人をしていました。江戸の涼袋・素輪と師弟の交わりをもち、弟子も多く那波俳壇を代表する俳人です。また書も巧みで玉村八幡宮境内にある自作の碑「啼きすてて思いなげなる雉(きぎす)かな」や芭蕉句碑十六夜塚にも彼の能筆がしのばれます。墓は神楽寺東墓地にあります。

竹内勇水句碑
竹内勇水句碑

嚮義堂(きょうぎどう:樋越)

 伊勢崎藩政時代の郷校で、文化5年(1808)11月に設立され、明治5年(1872)に学制が制定されるまで、農閑期を利用して庶民に漢学が教授されました。校名は「義に嚮(むか)う」の意味で浦野神村を始めとする藩儒が交代で出講しました。

 現在ある建物は郷校として使用された当時の建物ではありませんが、屋根瓦に「學」の文字が刻まれており、庭内には嚮義堂の石碑「嚮義堂之記」が残されています。

嚮義堂
嚮義堂

浦野神村の墓 (うらのしんそんのはか:樋越)

 浦野神村は、江戸時代後期に伊勢崎藩の藩校学習堂の教授として子弟を教育しました。また、優れた行政吏でもあり、天明3年(1783)の浅間山噴火に伴い泥流の被害を受けたとき、大変取鎮方として活躍しました。

浦野神村の墓
浦野神村の墓

千輝玉斎画「橋上人物百態図」 (ちぎらぎょくさいが「きょうじょうじんぶつひゃくたいず」:下新田)

 玉斎は江戸時代後期の画家で、通称を幸兵衛といいます。中之条の出身で上新田万屋に婿入りしました。幼少より絵筆に親しみ、北斎の画風を学んで俗気を脱して伸び伸びとした風俗画・人物画に才能を発揮し、これは多数残されている作品の一つです。

橋上人物百態図
千輝玉斎画「橋上人物百態図」

称念寺家鴨塚(しょうねんじあひるづか:下新田)

 称念寺の本堂の前に家鴨塚があります。これは家鴨の供養塔で、国定忠治を捕縛したといわれている柳沢佐十郎が忠治の中風に同情し、その治療のため家鴨の血を飲ませたと伝えられています。(中風・・・脳出血後に残る麻痺状態のこと。)

称念寺家鴨塚
称念寺家鴨塚

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