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玉村町の遺跡分布

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年9月18日更新

玉村町遺跡分布図

※上の図はあくまでも参考図ですので、詳しくは文化財係にお問い合わせ下さい。
遺跡のおよその位置や内容は、「マッピングぐんま 遺跡・文化財」のページでも知ることができます。

玉村町の遺跡

縄文・弥生・古墳時代

 玉村町は群馬県の低地部に位置し、縄文・弥生時代の遺跡はわずかに見つかっているにすぎません。玉村の地に人々が定住し、集落を形成するようになったのは古墳時代前期と考えられ、東海地方の土器の特徴があるS字口縁台付甕が出土する遺跡が多くあります。また、周溝を巡らせた住居も確認されています。砂町遺跡からは灌漑用と考えられる水路が見つかっており、野屋敷遺跡からは6世紀の水田が見つかっています。松原3遺跡からは石製紡錘車・模造品を作成した工房が見つかっています。古墳は前期では軍配山古墳、中期では梨ノ木山古墳、後期では小泉大塚越遺跡3号墳を代表とする古墳がつくられました。しかし、かつては数多く見ることのできた古墳群も現在ではあまり残っていません。

奈良・平安時代

 奈良・平安時代の集落跡は上之手八王子遺跡・上之手石塚遺跡をはじめ数多くあり、微高地に密集しています。また、砂町遺跡から古代幹線道路である東山道駅路と考えられる遺構が見つかっています。12世紀初頭には浅間山が噴火し、このときに埋没した水田跡が各箇所で数多く確認され、およそ109~110m間隔で碁盤の目のように大アゼがつくられていることが分かってきました。

鎌倉から戦国時代

 鎌倉から戦国時代では、玉村の地が交通・軍事の要衝であったことが文献資料からも分かります。宇貫遺跡や南玉館をはじめ堀を巡らせた屋敷が数多くつくられ、現在でも田口下屋敷や上之手新井屋敷などでは堀が残っています。また斉田竹ノ内遺跡の中世屋敷など発掘調査により見つかるケースも増えています。

江戸時代

 江戸時代の遺跡もあり、天明3(1783)年の浅間山の噴火により、泥流が利根川に流れ込み、流域の村々にも押し寄せ、多くの水田や畑が泥流に埋もれました。柄田添遺跡からは当時の人の歩行跡が明瞭に残っている水田跡が確認されています。その他、上福島中町遺跡や樋越諏訪前遺跡からは泥流で埋没した家屋も確認されて生活用具が出土しています。甚大な被災にもかかわらず、村人は田畑の復旧に立ち向かい、泥流土を処理するために溝を掘って「天地返し」をおこないました。その痕跡も各地で発掘されています。文献資料だけでなく、遺跡からも被害の状況をうかがうことができます。

  このように玉村町には各時代に地域を代表するようなすばらしい遺跡が見つかっています。これらの文化遺産を保存するだけでなく、まちづくりに役立てることは今後の課題です。