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明治時代

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年9月22日更新

明治の玉村町

 慶応4年(1868)1月11日に発生した大火で玉村宿のほとんどが焼けてしまいました。しかし、3年後の明治4年(1871)には37軒の飯売旅籠屋が復興し大火の前と変わらない賑わいをみせていました。その後、廃娼運動が巻き起こり、明治26年(1893)玉村町内の貸座敷業者(飯売旅籠屋)6軒と娼妓(しょうぎ)(飯売下女)43人が転廃業し、時代の転換期を迎えました。

 明治22年(1889)には町村合併が行われ、玉村町・芝根村・上陽村・滝川村が誕生しました。明治後期は1町3村としての町村制度が確立していった頃でした。

郵便

 玉村での郵便業務は明治6年(1873)、現在の玉村小学校の場所に「玉村郵便取扱所」として始まりました。翌7年には「玉村郵便役所」、さらに翌8年に「玉村郵便局」となりました。郵便局長は、江戸時代には問屋役であった加賀美家(大黒屋)が務め、明治10年代頃、現在の加賀美家の場所(玉村町下新田5丁目)に移転しています。明治12年(1879)の郵便物は、発送数が約6,002通、配達数が7,745通でした。明治16年(1883)には為替と貯金業務、明治29年(1896)には小包郵便業務が開始されました。

 また、高崎線開通(明治17年)以前には東京から県庁まで公文書を運ぶ郵便馬車が角渕-上之手-下新田7丁目-上新田4丁目-板井を通っていて、この道を「馬車道」と呼んでいました。

電信

 明治36年(1903)、玉村郵便局において電信(電報)業務が開始されました。電信業務が始まった日には、花火があがり、楽隊による演奏が行われるなど町をあげての大変な盛り上がりだったようです。また、開始に伴い局の名称も「玉村郵便電信局」に改称されましたが、翌月には「玉村郵便局」の名称に戻されました。明治43年(1910)の電信数は7,876通でした。

自転車

 玉村へ自転車が入ってきたのは明治20年代頃であり、30年代後半になると一般にも普及するようになったようです。明治37年(1904)の日野屋の「商務日誌」のなかにも、店員が昼休みに自転車の稽古を行うといった記述があり、営業用として自転車を利用するようになったことがうかがえます。

明治43年(1910)日野屋と例幣使道
明治43年(1910)日野屋と例幣使道

乗合馬車

 明治時代の交通機関というと、人力車と乗合馬車でした。人力車の営業区域は玉村から約一里四方であり、料金が高かったため主な利用者は医師などの限られた人々でした。乗合馬車は、玉村から倉賀野まで運行されていました。午前8時頃と午後2時頃の2回往復し、七丁目四ツ角から出発しました。馬車には、御者と別当(車掌にあたる)が乗務員として乗り込み、定員は10人ほどでした。

文化人

羽鳥千尋

 明治20年(1887)、群馬郡滝川村板井(現玉村町板井)に軍医であった父文作の長男として生まれた羽鳥千尋は、玉村小学校、高崎中学を首席で卒業しました。卒業後は上京し、進学の準備をしていましたが、親類の事業失敗、父の死などが重なって勉学は中断、自分自身も明治40年(1907)肺結核を発症、入院、退院すると今度は母が病に倒れました。

 そのような中で千尋は医師を目指し、独学で勉学に励みました。明治42年(1909)学科試験に一発合格し、実地試験準備のため、当時軍医総監であり尊敬していた森鴎外に実地経験のできる職の斡旋を願う書簡を送りました。

 鴎外は千尋に職を斡旋し、千尋は上京してしばらく働いていましたが、病気が再発し大正元年(1912)26歳の若さで帰らぬ人となりました。

 鴎外はその一ヵ月後、千尋の書簡から小説「羽鳥千尋」を発表しました。

倉田潮

 倉田潮は、明治22年(1889)、玉村町下新田6丁目に医師一徳の長男として生まれ、藤岡中学、旧制二高、東北帝大独法科に進学しましたが、病気で中退し、文筆活動に転じ、大正末期から昭和初期にかけて、作品を発表しました。昭和39年(1964)に没し、その一周忌に称念寺に、潮の句碑が建てられました。また、玉村町文化センターには代表作「鶯」の一説が、さと夫人の追悼句とともに碑として残されています。

倉田潮小説碑(玉村町中央公民館)
倉田潮小説碑(玉村町文化センタ-)