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近代・現代

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年9月19日更新

大正の玉村町

 日露戦争後に進められた町村の行財政改革運動である地方改良運動によって、大字の所有財産の処分が行われました。さらに町村合併後も大字に「村」を付けていたのを廃止しました。これによって、大字の機能は削減されました。

ガス灯

 大正2年(1913)、玉村町上・下新田に初めて電灯がともされました。電力供給地域は大正時代に徐々に広がっていきました。電灯がつくまでの明治から大正時代の一般家庭の照明には石油ランプが使われていました。明治後期の玉村町上・下新田には、4丁目から6丁目にかけて軒先に200余りのガス灯が掲げられていたようです。ガラスには屋号などが入れられ、看板の役割も果たしていました。これらのガス灯の燃料も石油であり「石油ランプ街灯」であったと思われます。

日野屋ガス灯(個人蔵)
日野屋ガス灯(個人蔵)

昭和の玉村町

 利根川と烏川が流れる玉村町には、福島橋・五料橋・岩倉橋がかかっています。今では頑丈につくられていますが、そこに至るまでには長い道のりがありました。明治から大正にかけては、各橋とも舟橋でした。大正15年(1926)に福島橋は鉄橋となりました。昭和に入ると、岩倉橋・五料橋は木製の橋となりましたが、両橋ともに洪水により流されてしまいました。戦後になってコンクリートの橋となり、交通の要所として欠かせないものとなりました。

 昭和32年(1957)、現在の玉村町のかたちが玉村町、上陽村、群南村大字八幡原の一部・大字宇貫が合併することによって誕生しました。その後、小中学校校舎、プール・体育館、群馬県立女子大学、県央下水処理場などさまざまな施設が次々に建てられていきました。

電話

 昭和2年(1927)電話が開通しました。開始当初の加入者は53軒で、商工業者が多数をしめていました。当時の電話は手動式で、交換手を通しての通話であり、市外線が1回線しかなかったため、通話までに大変時間がかかり、交換手に盗聴されるといったこともありました。

乗合自動車

 大正から昭和初期にかけて、新町・高崎・前橋・伊勢崎行きが次々開通しました。昭和10年(1935)には一人平均年8回の利用がありました。乗合自動車の普及によって、それまでの交通機関であった乗合馬車や人力車は廃業に追い込まれました。

昭和40年代の例幣使道(6丁目)
昭和40年代の例幣使道(6丁目)

五料橋(昭和28年)
五料橋(昭和28年)

平成の玉村町

 平成に入ってからも、文化センターやクリーンセンターなど施設の建設が進められました。そして現在、玉村町の人口は約3万8000人、世帯数は約1万3000戸にまで増えました。平成12年(2000)4月には、5つめの児童館となる南児童館が開館しました。各小学校区にそれぞれ児童館が置かれることになり、教育施設の充実がはかられました。また、平成13年(2001)12月には玉村大橋が玉村町と他市町村をつなぐ橋として完成しました。玉村町はこれからも住みよい田園都市をめざし、さらなる発展を続けていくことでしょう。